先週の土曜日に、いつものマッチ君からツーリングのお誘いを受けていたのですが、体調不良(血圧上昇気味

)で、今回はパスしたのですが、いざ土曜日になってみると我慢できずにひとりで出かけてきてしまいました。
(マッチ君たちの様子は →
コチラ )
まずは 常磐道で船引・三春インターまで行き、そこから約10分ほど走り、
三春城跡 へ ・・・


三春城は、別名 「
舞鶴城」 とも呼ばれ、東北の雄
伊達政宗 の正室
愛姫 の誕生地として知られています。
1504年(永正元年)この地の豪族であった田村氏3代・義顕により、築かれたのが始まりとされています。
豊臣秀吉の時代、伊達家とは半従属関係のあった為、小田原の陣に参加しなかった事から奥州仕置きにより改易 、その後 田村氏4代宗顕は伊達政宗に従って仙台に移る事になります。
以後、三春は会津領 、一時期幕領となりますが、1645年(正保2)、常陸宍戸より秋田俊季が5万5千石で入り、秋田氏は11代続いて明治を迎えることになります。




土塁や石垣の一部などが残っています。

本丸は急斜面をなす山頂にあり、三春の城下町が見渡せます

秋田氏時代の藩校「明徳堂」表門が麓の三春小学校に移築保存され、三春町指定有形文化財に指定されています。
残念な事に、城祉公園となってはいるものの、雑草が生い茂り、何箇所も蚊に刺され、ゆっくりと散策する事が出来ませんでした ・・・
三春城の散策を終え、次なる目的地へと向かうべく、磐越自動車道・猪苗代インターへ
次なる目的地は、
猪苗代城跡
猪苗代城は、別名“
亀ケ城”といい、磐梯山南麗の泥流地形突端部に築かれた平山城で、 現在では、“亀ケ城址公園”となっています。
亀ケ城は、三浦氏の一族である佐原義連の孫・大炊助経連が、鎌倉時代初期の1191年(建久2)に築いたと伝えられています。









亀ケ城には、亀姫という妖怪伝説があります。
1640年(寛永17年)。当時の猪苗代城の城主は会津藩の第2代藩主・加藤明成であり、堀部主膳という者が城代を務めていた。
12月のある日、堀部主膳が一人でいるところへ見知らぬ禿頭の子供が現れ「お前はまだ城主に挨拶をしていない。今日は城主が会ってやるとのことだから、急いで準備をしろ」と言った。
主膳は「この城の主は我が主人・加藤明成、城代はこの主膳であり、他に城主などいない」と言い返して睨みつけた。すると子供は笑い「姫路のおさかべ姫と猪苗代の亀姫を知らないのか? お前の命運はすでに尽きた」と言い残して姿を消した。
年が明け、正月の朝。主膳が城の広間へ行くと、自分の席には棺桶や葬儀の道具などが置かれていた。家来たちに尋ねても、何者の仕業かはわからなかった。その日の夕方には、どこからか大勢で餅をつくような怪音が響くなどの怪異があった。その正月の18日、主膳は便所で倒れ、2日後に息を引き取った。
同年の夏のこと。7尺(約2.1メートル)もの大入道が田のそばで水を汲んでいた。それを見た城の武士が一刀のもとに斬り捨てると、それは大きな狢だった。以来、城で怪異が起ることはなかったという。
(ウィキペディアより抜粋)
亀姫が、姉のおさかべ姫(姫路城に在住

)に会いに行く際は、男の生首を手土産に持っていったそうです。
オソロシヤ〜

そんなこんなで本日のお勉強を終えた私は、いつもの様に温泉へ ・・・

今回は、猪苗代にある
押立温泉 (おったち温泉)
名前がちょっと○○だぁー



お世話のなったのは、
住吉館 さん
HPは →
コチラまだ11時ごろだったので、入浴客は私一人 ・・・・
チョット残念!!

← 何が??
貸切の露天風呂を思い切り堪能したのでした ・・・

帰るにはチョット早いので、 磐梯山ゴールドライン へ ・・・


気持ちのいいワインディングロードを楽しみ、一路家路へ ・・・
帰りは 袖ヶ浦ナンバー の
R1200RT さんと暫らくの間ご同行 ・・・
往復240km の旅を終えたのでした


PS
ただ今
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posted by cyagara at 08:13
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日記